日本中が大揺れに揺れていた戦国時代末期、土佐の戦国武将・長宗我部元親(ちょうそがべもとちか)は、ついに四国平定の野望を果たしました。しかし関ヶ原後、天下を取った徳川家康から土佐二十四万石の藩主に任ぜられたのは、遠州(今の静岡県)の山内一豊で、この時期が土佐史のエポックメイキングといえるでしょう。以来、高知の街は城下町となり、土佐藩の財政は絹や紙、材木の生産などが柱になりました。


山内一豊 1545-1605
関ヶ原の功名で徳川家康より土佐24万石を与えられ、遠州掛川から土佐へ。初代藩主として高知城を築城し、城下町をつくりました。「一豊の妻・千代」といえば内助の功の代名詞。







長い藩政時代を通じて旧勢力と新勢力の葛藤はつづき、幕末風雲の転換期に、坂本龍馬や中岡慎太郎ら多くの革新と反骨の志士を生む素地ともなっていったのです。明治維新を迎え、新政府に対して血気盛んな自由民権運動を起こしたのも、板垣退助ら土佐の若者たちでした.。



歴史を振り返れば、10世紀には土佐の国司として派遣された紀貫之が、紀行文学『土佐日記』を著しています。そこには土佐人の明るく人情味豊かな様子や、古来よりお酒を愛した土地柄も読み取れます。また、幕末四賢侯のひとりで、大政奉還を幕府に建白した山内容堂は、鯨海酔侯の号をもつ、酒好きの殿様としても知られました。
箸拳などのお座敷遊びも多彩な高知ですが、いっぽう、「お客」と呼ばれる家々での宴会も、祭りや冠婚葬祭に欠かせないもので、つい数十年前まで盛んに行われていました。皿鉢料理を囲む無礼講のにぎやかな宴です。

皿鉢(さわち)料理とは?
有田焼や九谷焼の浅い大皿に盛りつけた、土佐の宴会料理。昭和の終わりごろまで、「お客」と呼ばれる自宅でのバイキング式宴会が盛んで、今も大人数の宴会場では皿鉢スタイルが受け継がれています。皿鉢には2種類あり、刺身やタタキを波のように並べた「刺身盛り」と、何種類もの寿司や料理、ようかんなどを盛りあわせた「組み物」からなっています。





  背後を峻険な四国山地に閉ざされ、南には雄大な太平洋がひらけた温暖な土地。土佐の人々は、ひたすらに明日を夢みる力を、陽光と風雨激しい南国の風土から与えられたのでしょうか。情熱は祭りにも鮮やかに生きています。北海道から全国に飛び火して広がったよさこい祭りも、高知から始まりました。半世紀以上もつづいてきた若者中心の晴れ舞台は、今後も目が離せません。


そしてまた、400年の歴史を誇る日本最大規模の日曜市も、大いなる日曜ごとの祭りと呼びたくなる玉手箱的空間です。


ご存じですか?植物学者牧野富太郎、製紙家吉井源太、精神医学者の森田正馬。それぞれ、専門分野で類のない功績を残した偉人たちです。志した分野で一筋に生きた姿もまた、土佐気質(とさかたぎ)をたぎらせていた証でしょう。近代・現代の土佐は、個性的な作家や漫画家を輩出した地としても注目されていますが、土佐人の胸に流れ、土佐弁に表れる辛口でキレの良いユーモアや批評精神こそは、この風土と歴史的遺伝子の申し子かもしれません。